山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第229回

2015.02.13

nt毛利家0213相州警衛幕令 写真は、黒船の来航に備えて、萩(長州)藩藩主毛利敬親に対して、相模国(神奈川県)三浦半島の防衛を命じた幕府の命令書です。

 

江戸湾の入口にあたる三浦半島の浦賀は、もともと譜代大名の名門、彦根藩井伊家と川越藩松平家が分担していました。しかし、これでは不十分とみた幕府は、江戸内湾の防禦を固めるため、この両家を羽田に移動させたのです。代わって三浦半島や、対岸の房総半島の防衛は、西国の有力外様大名に命じることとしたようです。

 

このとき、三浦半島の防衛を命じられたのは、萩藩だけではありませんでした。肥後国(熊本県)の細川越中守斉護(なりもり)との分担で、防衛が命じられていたのです。田中誠二氏によると、負担を課すにあたり、家格等がよく似通った複数の大名家を組み合わせることは、彦根藩と川越藩の例にも見られるように、幕府の常套手段だったとのことです。それにより、両家を拮抗させ、幕府の目的を、迅速かつ効果ある形で実現しようとしたのだそうです。

 

細川家と毛利家は、初代藩主の毛利秀就(ひでなり)以来、殿中における席次などをめぐって、互いにせめぎ合う存在だったようです。この相州警衛を無事終えた敬親は、その功により、安政六年(一八五九)に左近衛権中将に任じられます。このいわゆる「中将成(ちゅうじょうなり)」は、歴代藩主の誰も成し得なかった快挙でした。

 

ただし、江戸城内殿中における席次は、細川斉護の次でした。このときの基準は、よく分かりませんが、斉護は敬親よりも年長であることに加え、藩主への襲封も先でした。中将任官の時期はよくわかりませんが、あるいは斉護の方が先だったのでしょうか、いずれにしても、このときの席次に関して、毛利家は、細川家の後塵を拝することになりました。したがって、ライバル細川家を凌駕するためには、さらなる幕府への忠節が必要とされたのです。