山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第228回

2015.02.06

nt毛利家0206姥倉運河開削 写真は、江戸時代の末期に羽様西崖(はざませいがい)という絵師が描いた絵巻の一部です。全三巻からなる長い巻物ですが、萩の風景を、城下を流れる松本・橋本両大川や、日本海から眺めて描いたものです。

 

写真の部分は、日本海側から見たものですが、山を削り、石垣で護岸を築いている様子が描かれています。これは、松本川の溢水を日本海へ導水するため、萩(長州)藩の十三代藩主毛利敬親(たかちか)が命じた、姥倉(うばくら)運河の開削の様子を描いたもののようです。

 

天保七年(一八三六)・嘉永三年(一八五〇)の両度にわたり、萩城下は未曾有の大洪水に見舞われました。この洪水では、萩城の被害も甚だしかったらしく、毛利元就を祀った洞春寺(とうしゅんじ)裏の山も崩れるほどでした。敬親自身、この土砂崩れには衝撃を受けたようで、自らの治政がおぼつかないため、元就の「尊霊」が「震怒」したと恐懼しています。

 

ここに至り打ち出された抜本的な解決策が、松本川放水路としての、姥倉運河開削でした。嘉永五年(一八五二)に開始された工事は、三年後の安政二年(一八五五)に至ってようやく完成した、当時としては大工事だったようです。

 

『萩市史』によると、これにより洪水の危険が軽減されるとともに、城下舟運の便も高まったとされています。田中誠二氏によれば、藩当局もまた、この運河の完成により、北前船寄港の便が高まると予測し、運河に沿って倉庫を設けるなど、運河を積極的に活用した財政再建を企図していたといいます。

 

この計画が、その後どのように進展したのかは、定かでないようです。しかし、この時期、黒船対策などで戦費が増大した結果、財政不安が再燃していた萩藩にとって、自然災害すら経済振興・財政再建の糧にしようとした点は、注目に値します。