山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第227回

2015.01.30

nt毛利家0130御重代太刀拵写真は、萩(長州)藩の初代藩主毛利秀就が、寛永十一年(一六三四)、朝廷から拝領した太刀の拵(こしらえ)です。毛利家では、これを代々保管すべき大切なものという意味をこめて、「御重代太刀(ごじゅうだいたち)」と呼んでいます。

 

この年は、秀就にとって波乱の一年でした。前将軍徳川秀忠の死により、名実ともに天下人の地位を継承した将軍徳川家光が、全国諸大名を招集して上洛、全国諸大名の「朱印改(しゅいんあらため)」を行ったのです。「朱印改」とは、前将軍秀忠の名で発給された領知判物や朱印状、すなわち「領知」と呼ばれる、諸大名の所領・人民の支配権を認めた書面を更新し、改めて家光の名でそれを付与することで、将軍・諸大名間の主従関係を再確認することです。

 

この場で、支藩長府の毛利秀元、下松の毛利就隆が、将軍から直接朱印状を給付されるよう幕府に働きかけたのです。それまでこの両者の領知権は、将軍が書面に明記したものではありませんでしたから、秀元・就隆にとっては、自らの領知権安定を目指したものでした。しかし、本藩の秀就からすると、防長両国の分割にもつながりかねない、危機的な事態でした。

 

秀就側の巻き返しにより、防長両国は、従来どおり秀就に対し、一括してその支配権が認められます。しかし、この一件で、秀就と秀元の対立は決定的となり、以後しばらくの間、萩本藩と長府藩は、幕府課役の負担をめぐって、ことあるごとに対立するようになりました。

 

毛利秀元は、秀就の父輝元の従兄弟でしたが、まだ子のいなかった輝元の養子とされていました。その後秀就が生まれたため、家督は継承せず、秀就に嫡子の座を譲りました。防長移封後も、豊浦郡一帯を輝元から与えられ、玖珂郡を与えられた吉川広家とともに、領国の東西を守る要とされました。また輝元は、秀就の補佐役として、秀元に期待していました。しかし秀就と秀元は、何故かそりが合わず、輝元の死後、その対立は深刻化したようです。