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第226回

2015.01.23

nt毛利家0123毛利秀就請書 写真は、元和七年(一六二一)毛利輝元が晩年に、長子秀就に与えた書状です。

 

書かれたのは、秀就の妻の実家越前松平家と将軍徳川秀忠の確執が深まりつつあった時期です。毛利家の命運すら左右しかねないこの政情を、秀就はよく理解していなかったようです。深更まで酒を飲み、謡や能・舞に耽ったため、朝起きることができず、昼にもうたた寝するような有様でした。また、お気に入りの家臣を重用するなど、家中支配の手腕にも疑問が見られました。そして何よりも、前将軍徳川家康の危篤時に、歌舞音曲にことさらに打ち込むなど、徳川氏の支配そのものを軽んじているふしも見られたのです。

 

輝元は、こうした秀就の姿勢を、毛利家存亡の危機と考えたのでしょう。衰えた老体にむち打ち、長い訓戒を秀就に与えることにしたようです。

 

この書状、紙の継ぎ目ごとの裏に、秀就の花押が据えられています。また、末尾には、秀就自ら、輝元の訓戒を一つ一つ了承した旨の請書を記し、やはり継ぎ目裏に花押を据えて貼り継いでいます。

 

元々の書状が、ばらばらだったのか、それとも貼り継いでいたのか、そこまでは定かではありません。しかし、この書状の現状からは、輝元からこれを受け取った秀就が、継ぎ目ごとに脱漏・錯簡がないことを確認した上で、裏花押を据えたことがわかります。さらには祐筆任せにせず、自筆で請書を貼り継ぎ、その継ぎ目にも裏花押を据えたことはまちがいありません。

 

親子の間での書状のやりとりとはいえ、このやりかたは、まるで何かの重要な契約のごとく厳重です。訓戒の内容を鑑みた限りでは、秀就が自発的にこのような重々しい形式をとったとは思えません。当然輝元が、事細かに秀就に指示したことと思われます。形式から見ても、輝元は、この時期の秀就の言動を、毛利家の危機と考えていたことがよくわかるのです。