山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第225回

2015.01.16

訂_毛利家140214半5 写真は、毛利秀就の父輝元の肖像画です。輝元は、関ヶ原合戦の後もなお、江戸在勤を続けていた秀就に代わり、縮小した領国を再建し、萩(長州)藩の基礎を築きました。長命を保った輝元は、寛永二年(一六二五)、七十三歳で死去します。当時としては高齢で、彼の自筆書状を見る限りでは、死の数年前から、まともに筆をとることも難しかったようです。

 

既に体の衰えを感じていた元和七年(一六二一)、輝元は、長男の秀就に向けて、長文の訓戒を与えます。その内容は実に多岐にわたっていました。

 

領国支配、特に財政問題に関しては、老臣の意見をよくきくように諭しています。また、家臣の扱いについても、奉公の在り方、何が大切かよく考えて召し使うよう指示しています。

 

訓戒は領国支配にとどまらず、大名間の交誼にも踏み込みます。秀就は、約束をしばしば違え、書状の返信が遅れることもあったらしく、それはいけないと注意しています。さらには、最も大切なのは、対幕府関係だと断じ、将軍との関係を良好に保つことが、毛利家永続の決め手であり、輝元の父隆元、祖父元就へ果たすべき、輝元の孝養になると述べています。

 

徳川家康の死後、天下人となったその子秀忠は、幕政安定のため、実弟松平忠輝、関ヶ原の功臣福島正則でさえ、次々と改易していました。また、この輝元の書状の前後、秀就の妻の実家、越前松平家の当主松平忠直は、病と称して領国越前に籠もったまま、秀忠の許に参上しようとせず、両者の間にはわだかまりが生じていました。

 

天下人と毛利家の縁者越前松平家の確執は、輝元には、毛利家の危機と映ったようです。しかし秀就は、かつて厳しく注意したにもかかわらず、領国支配も、生活習慣も、さらには将軍への奉公ぶりも改善してはいませんでした。危機感を募らせた輝元は、老体にむち打ってでも、秀就を諭さなくてはと、長い長い訓戒を秀就に与えたのです。