山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第224回

2015.01.09

nt毛利家0109萌葱羅紗具足羽織 写真は、毛利秀就が用いた「具足羽織」です。具足の上から羽織る、いわゆる「陣羽織」のことです。特徴的な点は、鮮やかな萌葱色の羅紗(らしゃ)で作られたものであること、十六個の乳(にゅう)と呼ばれる突起があり、そこに金糸でできた房(ふさ)が取り付けられていたことでしょう。日本の伝統的な色とは異なる深い緑色に、動く度に揺れる金の房が付けられたこの具足羽織は、さぞ人目を引いたことだろうと思われます。

 

この具足羽織は、万事派手好みで、異国情緒あふれるこの時代の風潮を反映したものなのでしょう。江戸で秀就は、こうした、かぶいた風潮に染まってしまったようです。

 

秀就は、慶長十三年(一六〇八)、徳川家康の孫娘を妻に迎え、松平の苗字を名のることを許されるとともに、長門守に任じられます。この婚礼は、関ヶ原合戦における徳川・毛利両氏の対立を、完全に解消する意味をもっていたのでしょうか、弟就隆(なりたか)と入れ替わることが条件ではありましたが、慶長十六年(一六一一)には、初めての帰国が認められます。

 

この帰国中、秀就と間近に暮らした、秀就の父輝元は、暫く見ぬうちの、我が子秀就が、すっかり江戸の、特に若者の風俗にかぶれていることに驚いたようです。そして、その流儀は、伝統を重んじる毛利家にはなじまないこと、徳川幕府、特に大御所家康・将軍秀忠の覚えもよくないであろうことなどを縷々と説得したようです。

 

しかし、若い秀就には通じなかったのでしょうか。秀就の身を心配した輝元は、江戸での秀就の補佐役、毛利秀元と福原広俊の両名に、秀就の教導を依頼しています。それは、家中のあしらい方、大名間の交誼のあり方や財政面における倹約の必要性をはじめ、節酒や遊び方、養生の必要など、生活の細々したことまで、実に多岐にわたることでした。輝元にとって、後継者秀就の教育こそ、人生後半最大の課題だったようです。