山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第223回

2014.12.26

訂_毛利家140214半5 写真は、将軍徳川秀忠の領知判物(りょうちはんもつ)です。領知判物とは、将軍の代替わりや、新たに所領を与えるに際し、江戸幕府の将軍が自ら花押を据えて発行する文書のことを指します。「領知」と呼ばれる、土地や人民を含めた領域支配権を、将軍が大名以下に対して保証する文書でしたから、大名たちにとっては、領国を支配する上で最も重要な文書でした。

 

関ヶ原合戦の勝利により、徳川家康は自他共に天下人として認められます。しかし、家康の勝利を支えたのは、福島正則や黒田長政・小早川秀秋など、豊臣恩顧の諸大名でした。そのためにも、この戦いにおける、自らの正当性を主張するため家康は、豊臣政権の大老としての立場を強く主張する必要がありました。すなわち、家康は、この戦いは、あくまでも豊臣政権を維持するために、筆頭大老として、同輩の大老の上杉景勝をはじめ、石田三成・毛利輝元ら、政権に仇なす大老・奉行を成敗するために行ったと主張しなくてはならなかったのです。

 

そのため家康は、自らに味方した東軍諸将に対して、大幅な加増を以て報いますが、自らが一大老に過ぎないことを明示するような、領知判物を発行することはできませんでした。唯一毛利氏に対しては、戦闘の経緯からして、最もやっかいな交渉相手と考えたのでしょうか、起請文という形で、防長両国を与える旨を明記しています。ただそれも、あくまでも徳川氏と毛利氏との私的な交渉という形式にとどめ、家康の地位はわざと曖昧なままにしていました。

 

元和三年(一六一七)の、この判物は、天下人となる可能性を有していた豊臣秀頼を、大坂の陣で葬った家康が、前年に死去したため、発行されたものだといいます。すでに十年以上も将軍職にはついていましたが、家康の死により、ようやく新たな天下人となった秀忠が、以後は自らが全国諸大名の上に立ち、彼らの領知を保証する存在であることを、明確に文書の形で示したもの、それがこの領知判物だったのです。