山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第222回

2014.12.19

nt毛利家1219緋羅紗丸合羽写真は、毛利秀就が着用したマントです。

 

一見するとよくできていますが、縫製の具合をよく見ると、とても手慣れたものではありません。おそらくは、羅紗(らしゃ)を適当に裁断し、南蛮渡りのマントをまねて、どうにかこうにか円形に縫製したようです。形はともあれ、当時の日本では貴重品とされた羅紗の、しかも、おそらくかなり珍しい緋色で、甲冑の上にこのマントを羽織った姿は、伝統的な戦装束を見慣れた日本人には、かなり珍しく映ったことでしょう。

 

残されている遺品を見る限り、秀就は、こうした武具や衣装にかなり凝ったようです。父の輝元は、秀就のこうした態度が、度を過ぎると諫めています。また、それに関わる費用もかなりにのぼったらしく、関ヶ原後の領国再建、徳川政権下の体制を生き抜くことを第一に考えていた輝元からすると、秀就の武具への凝りは、頭痛の種だったようです。

 

秀就は、関ヶ原敗戦の責任をとり、六歳で父の輝元の下を離れて、単身江戸で、いわゆる「人質」としての生活を送ります。人質といえば何となくおどろおどろしい感じがしますが、要は徳川氏への忠誠を示すため、徳川氏の本拠江戸で、直接徳川氏に出仕する大切な職務でした。江戸で暮らすうちに、秀就にもそれなりの交友が生まれたようですが、輝元は、彼らの影響が良くないのだと、江戸の秀就付き家臣から報告を受け、そのように考えていたようです。

 

秀就が生きた、江戸時代初期は、文化としてはいまだ桃山文化の範疇に属していました。桃山文化といえば、万事にわたり派手で豪放なことを好んだ天下人豊臣秀吉でよく知られています。必ずしもそれに倣ったというわけではないでしょうが、何事につけ派手なことが良しとされる時代であったことは間違いないようです。「傾(かぶ)き者」などという言葉がはやるのも、この時期ですが、秀就はまさしくそうした風潮にかぶれてしまっていたのです。