山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第221回

2014.12.12

平成二十七年は、干支でいえば未年だそうです。写真の毛利秀就(ひでなり)は文禄四年(一五九五)の乙未(きのとひつじ)の生まれですから、今風にいえば年男にあたるようです。

 

秀就は、中国地方の大部分を領有していた毛利輝元の長男として生まれます。長らく男子に恵まれなかった輝元にとっては、待望の長男であったようです。豊臣秀吉死後の慶長四年(一五九九)には、わずか五歳にして、大坂城で秀吉の子秀頼に謁見、その場で「秀」の一字を与えられると同時に、従五位下侍従、まもなく従四位下へと、異例の昇進を遂げています。

 

これは、一刻も早く秀就の立場を強化したいと考えていた輝元の願いと、秀吉死後の政権安定のため、特には徳川家康対策として、毛利氏を秀頼側に招き寄せたいと考えた豊臣政権側の思惑が、ともに絡み合った結果だと思われます。

 

その結果、毛訂_毛利家140214半5利氏は、関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将を務め、防長二か国に削封されることになるのは、周知のことです。敗戦により、秀就は、わずか六歳にして、徳川氏に対する忠誠の証として、いわゆる「人質」として、単身江戸に下ることとなります。この段階では、輝元は秀就に家督を譲ったわけではありませんし、秀就は長らく江戸暮らしを続け、その後も江戸と萩を往復する日々が続きますので、一時的に傾いた毛利領国の再建は、父である輝元が、毛利家当主として、遂行していくこととなります。

 
一般に、秀就は、萩(長州)藩の初代藩主とされ、彼の治世下に萩藩の諸制度が固まるとされます。しかし、その事績の前半は、父の輝元主導によるものでした。また、輝元の死後は、一族で長府藩主の秀元や、弟で徳山藩主となった就隆との確執に翻弄された感があり、藩主としての力量や実績に関しては、曖昧なところが多いのです。そのためか、さまざまな点で、個性派揃いの毛利家歴代の中で、秀就は、やや影の薄い存在だといわざるをえません。