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第220回

2014.12.05

nt毛利家1205出陣膳椀具 写真は、毛利元就が戦場で用いたとされる膳椀具です。

 

折敷(おしき)と呼ばれる朱塗の膳に、朱塗の椀が四つとも、椀二つにそれぞれ蓋がついているとも説明されますが、詳細は明らかではないようです。触れてみるとわかるのですが、膳・椀ともに、しっかりとした木が用いられ、簡素な見た目とは異なって、意外にずっしりとして重く、殺伐とした戦場で用いたと言われれば、そのとおりだなあと思わざるを得ない重厚さです。また、無駄な装飾は一切無く、厚く塗り固められた朱一色というところも、合理性を重視した智将元就らしい好みなのかもしれません。

 

この膳椀具は、元就の手により、厳島神社に奉納されたものだそうです。長らく厳島神社で保管されてきましたが、箱書によると、明治になって、時の宮司野坂元隆により、毛利家に返却されたもののようです。伝承が正しければ、元就の厳島信仰と、明治に至るまで連綿と続いた毛利家と厳島神社との関係を示す大切な資料だということになります。

 

「三子教訓状」のなかで元就は、厳島神社を篤く信仰していたこと、厳島神社の加護によって、戦勝を得たと記しています。現在の社殿が、元就の発願により、孫の輝元が、戦国大名毛利氏の総力を挙げて造営したものであることはよく知られています。これらのことから、元就が、厳島神社を心の拠り所として、篤く信仰していたことはまちがいありません。

 

ドラマなどでは、自分の実力だけを信じ、合理性を信奉しているかのような戦国武将です。実際、しばしば境内地を戦闘の場としていますし、敵対する寺社を焼き討ちしたり、「国家」のためと称して、寺社領を侵すことも度々でした。しかし、それは、神や仏を必ずしも軽んじていたわけではなく、自身の国と家を存続させるため、やむを得ないことと考えていたのです。一見矛盾するような合理性と信心とが同居している時代、それが中世だったといえます。