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第218回

2014.11.21

nt毛利家1121毛利元就短冊和歌写真は、毛利元就が自ら詠み、短冊にしたためた和歌です。

 

「心ありて折る一枝に老いが身も ゆかでや堪む遠山さくら」というものですから、晩年の作品だと思われます。頭に、「尾崎にて花御歴覧の日」とありますから、郡山城内の尾崎丸にて、花見を行ったときのもののようです。

 

尾崎丸は、郡山城の山頂、元就が暮らしていた、「嵩(かさ)」とよばれる本丸よりは下、中腹部分に位置する、まさに山の尾根先に作られた出丸でした。ここには、元就の嫡男隆元夫妻が暮らし、隆元の早世後も、隆元の妻と、夫妻の長男幸鶴丸が暮らしていたようです。

 

隆元の急死により、幼くして戦国大名毛利氏の家督を継ぐことになった幸鶴丸でしたが、隆元の死後も、引き続きこの郭の中で、母である尾崎局(隆元の妻)に育てられていたのです。

 

元就は、尾崎局に対して、本丸から再々手紙を書き、あれやこれやと輝元の養育に口を出していたようです。それは、幸鶴丸が成人し、輝元と名のってからも続いていたようですが、内容もまた、大名としての心得のほか、飲酒のたしなめなど、日々の起居に至るまで、何かと細かく、尾崎局から、やや苦言めいた返事も出されたほどです。

 

元就としては、期待をこめて育てた嫡男隆元の死後、残り少ない人生をかけて、輝元を一人前にしようとする想いからだったようですが、尾崎局や輝元からすると元就は、口やかましくて、やや煙たいおじいさんだったことはまちがいないようです。

 

永禄九年(一五六六)、出雲国の陣中で倒れて以後、元就は、本拠郡山城から、あまり外出しなくなるようです。この花見が、いつ行われたかは定かではありませんが、手紙だけではなく、時には元就自ら尾崎丸に出向き、隆元時代と同様に、尾崎局や輝元と親しく歓談することもあったのでしょう。家族としての結束、これが戦国大名毛利氏の核心だったのです。