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第217回

2014.11.14

nt毛利家1114錦直垂上着 これは、毛利元就が、将軍足利義輝(あしかがよしてる)から拝領した「錦直垂(にしきのひたたれ)」のうち、上着の部分です。

 

直垂は、上着と袴を同じ裂で作る衣装で、もともとは武士など軽輩が着用する衣装でしたが、武士の地位が上昇するとともに、殿中などで用いられる晴れの衣装となったようです。この直垂は、鎧の下に着る、鎧直垂と呼ばれるもので、袖が通常より短く、筒袖とされています。

 

これは、永禄三年(一五六〇)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の即位料を献上した功により下されたものです。同時に元就は、将軍から「陸奥守(むつのかみ)」という官職を与えられています。勿論元就が、現在の東北地方にあたる陸奥国を治めたという実績もありませんし、その希望もありませんでしたから、これは名目的なものでしかありませんでした。なぜ陸奥守なのかは、よくわかっていませんが、毛利氏の始祖大江広元(おおえのひろもと)が帯びた官職であるという、由緒によると推測されます。

 

元就にとっては、確かに栄誉であったことに間違いはないようですが、元就はこの「陸奥守」という官職、あまり用いなかったようです。たとえば、九州の髙橋鑑種(あきたね)に出した起請文には、前官職である「右馬頭(うまのかみ)」と記していたようです。また、村上水軍の総帥村上武吉は、「毛利右馬頭殿」宛に起請文を提出しています。起請文のような、当時としては最も重要な書類に記しているのですから、周囲の大名や国人衆からは、元就の官職は「陸奥守」ではなく、「右馬頭」と認識されていたのでしょう。

 

元就自身、亡くなる直前まで、子や孫、妻や身近な家臣たちに出す手紙には、「右馬」と記していましたから、その愛着ぶりは並々ならぬものだったようです。この「右馬頭」という官職、元就と毛利家にとって、どのような意味を有していたのでしょうか。