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第216回

2014.11.07

nt毛利家1107唐織 写真は、毛利輝元が、豊臣秀吉から拝領した能装束です。派手な稲妻文様が特徴的な、いかにも秀吉の好みを反映した感のある、桃山時代ならではの豪壮な衣裳です。

 

残念ながら、拝領に関する詳細な記録はなく、輝元が、秀吉の下に参向した際に拝領した、記念碑的な作品であろうことしかわかっていません。

 

本能寺の変により、かろうじて領国崩壊の危機を脱した毛利氏は、三年にわたる国境画定交渉を経て、秀吉と正式に和睦しました。その間、明智光秀・柴田勝家・織田信雄・上杉景勝などを降した秀吉との実力差は歴然でした。ただ秀吉は、毛利氏との関係を重視したのか、表面上は毛利氏への丁重さを崩しませんでした。秀吉の長宗我部氏攻略に際して、毛利氏は、秀吉の依頼により、あくまでも秀吉の同盟者として、四国攻略に協力しています。

 

毛利氏と秀吉との関係が、上下関係に転化するのは、天正十三年(一五八五)七月に、秀吉が関白に任じられて以降のことと思われます。翌年四月になると、秀吉は、大友宗麟の救援を名目に、毛利氏に対して、九州攻略戦の準備を命じます。このときの書式は、それまでの「書状」とは異なり、「朱印状」という、天下人が臣下に下す書式を用いています。その上、毛利氏に対して、この際、領国を統治する法を整備するようにも命じているのです。

 

九州攻めこそは、毛利氏が秀吉に臣従する、決定的な契機でした。ただ、秀吉の九州統治は、国人衆の抵抗が続き、なかなか安定しませんでした。なかでも、肥後の佐々成政や豊前の黒田孝髙の領国における国人一揆の抵抗は激しく、毛利氏や輝元の代理を務めた小早川隆景は、その鎮圧に忙殺されました。そのため、輝元や隆景自身の上洛は、上杉景勝・徳川家康に遅れ、天正十六年(一五八八)にようやく実現します。この能装束は、そのあたりで下されたと思われますが、どの場面で、どうして輝元に手渡されたか、想像に任せるより術はありません。