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第215回

2014.10.31

毛利家141031伝等顔筆四季山水図yo 毛利博物館といえば、雪舟が描いた「四季山水図(山水長巻)」でよく知られています。毛利博物館には現在、雪舟本を含めて、三巻の「山水長巻」があることをご存じでしょうか。

 

そのうち一巻は、雲谷等顔(うんこくとうがん)筆とされ、雪舟本とともに、国宝に指定されています。ただし現在では、その画面構成などから、等顔ではなく、その子で、雲谷家三代目を継いだ、等益(とうえき)の作だと考えられているようです。

 

なぜこの作品が、等顔筆として伝えられたのか、子細は明らかでありません。雲谷派の祖として知られる、雲谷等顔は、肥前国の武士の子として生まれたそうです。その後、毛利家に仕え、毛利輝元から、雪舟のアトリエ「雲谷庵」と、「四季山水図」を拝領したとされています。ただこれらは、いずれも、江戸時代に作られた家伝によるもので、現存する画業にくらべて、史料が乏しく、等顔に関しては、分からないことが多いようです。

 

山本英夫氏によると、京都の狩野派の下で修業し、その後、毛利輝元の広島築城などに筆をふるって、その功績により、長州(萩)藩の御用絵師としての地位を確立したとされます。「毛利家文書」の中には、等顔が、「狩野」等顔として署名した起請文が残されています。等顔は、藩内では、狩野派の一派として認識され、あるいは振る舞っていたのでしょう。

 

天下人豊臣秀吉の下で、諸大名は、秀吉にならった城を相次いで築きました。広島城を築いた輝元もまた、そうした大名の一人でした。秀吉の城の特徴は、石垣にそびえる天守閣、眼下に広がる豪壮華麗な御殿建築でした。これらの装飾に、狩野派の障壁画は不可欠でした。完成途上の広島城を訪れた秀吉は、その出来栄えを見事と賞したようです。おそらく広島城は、等顔の障壁画で荘厳されていたのでしょう。秀吉に対して、大大名としての面目を施した輝元が、以後何かにつけ等顔を重用したのだと、現在では考えられているようです。