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第214回

2014.10.24

訂_毛利家140214半5 長州(萩)藩主毛利斉広(なりとお)は、天保七年(一八三六)十二月二十九日、江戸の藩邸(桜田邸)で急死しました。まだ二十三歳の若さでした。その若さ故に、まだ嗣子を定めていませんでしたので、長州藩は御家断絶の危機に見舞われます。

 

あわてた藩首脳陣は、斉広の死を伏せたまま、在国中の前藩主斉元の長子敬親を江戸に呼びました。そして、翌年三月になって、斉広の名で、敬親を正式に養子とする願書を幕府に提出するのです。

 

この養子願いは幕府に認められ、藩は斉広の死を公表、改めて敬親による家督相続を願い出ました。四月二十七日に、その願いは受理され、敬親は無事、長州藩の藩主となりました。

 

六月十八日、敬親は、従四位下侍従に任じられ、大膳大夫の称号も与えられました。いずれも、重就以降の毛利家歴代にとって、恒例となっていたものです。波乱の襲封劇でしたが、藩主就任は順調に行われたようです。

 

同日、敬親は江戸城において、写真の「一字状」を下されます。「一字状」とは、将軍の名前の一字を与えられるものです。このとき敬親は、将軍徳川家慶から一字「慶」を与えられ、以後「慶親(よしちか)」と名のることになります。

 

この、主君から与えられる一字のことは「偏諱(へんき)」といい、主従の関係を一目瞭然に物語るものとして、武家社会においてはとりわけ重視されていました。

 

江戸幕府においては、将軍偏諱が譜代大名に与えられることはありませんでした。将軍の偏諱は、御三家などの有力家門、もしくは毛利氏や前田氏・島津氏など有力な外様大名にのみ与えられる、特別なものでした。江戸時代における大名の家格は、位階、官職、石高、席次だけでなく、こうした偏諱などによっても形作られる、きわめて複雑なものだったのです。