山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第213回

2014.10.17

天保七年(一八三六)は、長州(萩)藩にとって、これまでにない激動の年でした。この年五月十四日には、隠居後も十余年にわたって藩政の実権を握り続けた「大殿」毛利斉煕(なりひろ)が、五十三歳でこの世を去りました。

 

「大殿」斉煕の主導から解放された、十一代藩主毛利斉元(なりもと)でしたが、独自の路線を実現する間もなく、九月八日には、斉元自身も四十三歳で亡くなります。

 

斉元の跡を継いだのは、斉煕の子斉広(なりとお)でした。嫁いですぐに亡くなりはしましたが、十一代将軍徳川家斉の娘和姫を妻に迎え、「将軍家の婿」となった斉広は、毛利家の家格上昇への期待を一身に担った、期待の藩主でした。しかし、彼自身もまた、正式に家督継承が認められた十二月十日から、わずか二十日あまり後の十二月二十九日、江戸藩邸において、あっけなく病没してしまうのです。

nt毛利家1017毛利忠正像

 

まだ二十三歳の若さであった斉広は、家を継ぐべき男子を正式には定めていませんでした。嗣子を定めないまま藩主が死去した場合は、幕府の定めでは、いわゆる御家断絶の処分が下されます。あわてた藩首脳陣は、萩に在国していた、前藩主斉元の長子敬親(たかちか)を急遽江戸に呼び寄せました。そして、いまだに生存しているかの如く、斉広の名で、敬親を養子に迎えたいと幕府に願い出ました。幸いこの縁組は、幕府から特に支障もなく承認されましたので、敬親は、天保八年(一八三七)、晴れて十三代長州藩主となるのです。

 

斉煕から斉広への中継ぎとして十一代藩主となった、毛利斉元の長子として生まれた敬親は、藩主となるべく育てられたわけではありませんでした。その敬親が十三代藩主になるとは、敬親自身でさえ想像できなかったようです。斉広の死を知らされないまま江戸へやって来た敬親は、まさしく何も知らないまま、藩主に「させられた」のです。