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第212回

2014.10.10

nt毛利家1010_毛利斉広像 写真は、長州(萩)藩の十二代藩主毛利斉広(なりとお)の肖像です。斉広は文化十一年(一八一四)十代藩主毛利斉煕(なりひろ)の子として生まれました。側室池上氏との間の子でしたが、正室の三津姫(鳥取藩主池田治道の娘)に男子が生まれなかったため、斉煕の後継者となるべき男子と目されたようです。

 

父の斉煕は、文政七年(一八二四)、家督を従兄弟で養子となった斉元に譲って隠居します。ただ、斉煕の隠居に先立つ文政五年(一八二二)に斉元は、実子敬親がいるにもかかわらず、斉広を養子としています。斉元は、斉広襲封までの中継と見なされていたようです。

 

斉煕・斉元の後継者と定められた斉広は、文政十二年(一八二九)に、将軍徳川家斉の娘和姫を妻に迎え、「将軍家の婿」となりました。これは、前藩主斉煕の運動により実現したもののようです。斉煕は、将軍家の娘を迎え、毛利家の家格上昇を図ったものと思われます。

 

藩主斉元は和姫降嫁と同年、従四位左近衛権少将に昇進します。これは、時期からみても和姫降嫁に伴うものと考えられます。毛利家の「少将成(しょうしょうなり)」は、初代秀就(ひでなり)が任じられて以降、斉煕・斉元の祖父である七代重就(しげたか)に至るまで絶えてありませんでした。その後も十代斉煕自身が任じられるまで、二代の間途絶えていました。

 

斉煕の狙いは、毛利家から代々少将を出す、「少将成」の家格に押し上げることだったのでしょう。斉煕の希望は、斉元の少将成によって実現しました。同時に嗣子斉広も、世子の身分ではありながら、元服と同時に少将成の一つ手前、「侍従成(じじゅうなり)」を遂げていました。和姫は降嫁後、わずか一年でこの世を去りますが、斉広の「将軍家の婿」としての立場が揺らいだわけではなく、斉広もまた少将成を遂げました。家格上昇を願う毛利家にとって、斉広はまさに期待の星だったのです。