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第211回

2014.10.03

毛利家141003秋草文様単衣yo写真は、「単(ひとえ)」という女性用の衣裳です。裏地を用いない小袖としての単は、主に絹などの動物性繊維を素材として作られ、上流武家女性が初夏から初秋にかけて着用した衣裳だといいます。この単には、色鮮やかな萌葱色の絹の縮に、染めと刺繍で、菊や萩・薄などの秋草と、風にたなびく几帳(きちょう)が描かれていますから、やはり慣習どおり、秋の初めに用いられたのではと思われます。

 

この単は、毛利家の姫君が、明治時代に用いた可能性が高いのですが、この時期の衣裳は、まだ江戸時代の名残をとどめていましたから、江戸時代の御殿でも、毛利家をはじめ諸大名家の姫君は、こうした華麗な衣裳を身にまとっていたに相違ありません。

 

現在残されている遺品を見る限りでは、将軍・大名の子女らが用いた調度・衣裳は、一般の武士層とは隔絶した豪華さです。毛利家では、藩主の正室・側室・子女ら係累を総称して「上々様方」と呼んでいましたが、「上々様方」の豪勢な生活を支えるため、給付される「仕渡銀(しわたしぎん)」は、江戸時代後期の頃には、毎年かなりの額に達していたようです。

 

田中誠二氏の研究によると、天保三年(一八三二)から始まった「仕組(しくみ)」と呼ばれる財政改革では、藩主ら「上々様方」への給付が半減されたようです。これは、前年に発生した大一揆の要因を、藩札の大増刷や専売制の強化など、放漫財政を補填するために実施された、庶民生活を犠牲にした経済政策だと考えた当職益田元宣らが、放漫財政の根源を絶つために決断したものだったようです。

 

こうした政策は、絶大な権力を持つ隠居毛利斉煕(十代藩主)のもとで、自らの国家観から財政の拡張を求める「上々様方」の抵抗や、うち続く天災などにより、残念ながら充分な成果は得られず、本格的な改革は、斉煕の死後藩主となった、毛利敬親の手に委ねられたのでした。