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第210回

2014.09.26

st毛利家140926姫君着物 写真は、毛利家の姫君の衣裳です。上級武家女性の礼装時に、一番上から打ちかけることから、「打掛(うちかけ)」と呼ばれています。素材は紅色の綸子、金銀をはじめとする色とりどりの刺繍糸で雲気が涌き立つ立涌(たてわく)文様の中に、菱形の花びら文様をあしらい、その間に蝶の文様と、刺繍と絞り染めで表した、色とりどりの菊などの花束を全体にあしらった、きわめて豪華な衣裳です。なお、振袖ですから、未婚女性のものだと思われます。

 

大名家にとって姫君の婚礼は、それぞれの家を結びつけ、嫁ぎ先との関係次第では、実家に繁栄をもたらす重要な政治的課題でもありました。

 

長州(萩)藩の七代藩主毛利重就(しげたか)以降、毛利家の姫君の嫁ぎ先は、土佐藩山内家などの有力な外様大名や、幕閣をも勤め上げるような有力譜代大名が目立つようになります。こうした名家に嫁ぐ姫君は、毛利家を代表する存在として、嫁ぎ先と毛利家の仲を取り持たなくてはなりませんから、彼女たちは婚礼が決まると江戸に呼ばれ、大名正室としての心得や、役割をみっちりと教え込まれたようです。

 

藩主正室や藩主側室、若君・姫君たちは、先代藩主の係累らも含めて「上々様方」と総称されていました。長州藩の十代藩主であった毛利斉煕(なりひろ)は、藩政を従兄弟の斉元(なりもと)に譲った後も、正室の三津姫(法鏡院)とともに、江戸の葛飾に大邸宅を築いて豪勢な隠居生活を送っていたといいます。斉煕夫妻は、将来他大名家に嫁ぎ行く姫君を、自らの手で教育しようとしたのでしょうか、主だった姫君と葛飾御殿で同居生活を送っていました。

 

田中誠二氏の研究によると、彼女ら「上々様方」への給付は、この時代、藩財政にとって大きな負担となっていたようです。彼女らへの給付をどう抑えるか、専制君主であった斉煕の下での財政当局にとっては、かなり難しい課題だったようです。