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第209回

2014.09.19

nt毛利家0919飾棚 写真は「飾棚(かざりだな)」といい、部屋の中に据えて、箱や小物を一時的に保管するための棚として用いられました。日本の家屋は、伝統的に作り付けの棚などが少ないため、必要に応じて、こうした棚や台、箪笥などを出して用いていたのです。

 

この棚は、梨地(なしじ)に、直線が交差する三重襷(みえだすき)文様を地文様とし、空間に、金銀の配分具合をすべて変えた小槌の文様をあしらった豪華なものです。交差が永遠に連続する三重襷文様は吉祥文とされます。小槌は「打出の小槌」と呼ばれる、これまためでたい文様です。さらには、毛利家の家紋「沢瀉(おもだか)」に、徳川家の家紋「三つ葉葵」が、ともに描かれていますから、この飾棚は、徳川家より毛利家に嫁いできた姫君の婚礼道具にまちがいないようです。

 

棚の様子からみると、江戸後期に嫁いできた節姫(ときひめ)、もしくは和姫(かずひめ)のいずれかのもののようです。

 

このうち、文政十二年(一八二九)、後に十二代藩主となる毛利斉広(なりとお)に嫁いだ和姫は、当時絶大な権勢を誇ったとされる十一代将軍徳川家斉の娘でした。将軍家の婿となり、毛利家の家格を高めようとしたのは、斉広の実父十代藩主毛利斉煕の戦略だったようです。

 

残念ながら降嫁の翌年、和姫はわずか十八歳でこの世を去りましたので、斉煕のあては外れました。しかも、和姫婚儀のため毛利家は、江戸上屋敷に御殿を新築するなど、多大な経費を支出していました。田中誠二氏によると、これらの支出に加え、斉煕自身の豪奢な生活を支えるため、長州(萩)藩は、藩内の諸産物買上を強化し、藩札の大量発行によって藩財政の補填を図ったようです。しかしこの政策は、藩札の信用下落などにより、領民の生活を根底から揺るがしたため、専売政策の撤回を求める天保の大一揆が発生する原因となったようです。