山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第207回

2014.09.05

元亀元年(一五七〇)、尼子氏再興を目指して蜂起した山中鹿介らを打倒するため、毛利氏は軍勢を出雲国(島根県東部)に派遣します。総大将は、老齢の毛利元就に代わり、孫の輝元が務めていました。輝元に、叔父の吉川元春・小早川隆景の「両川」を添え、毛利氏の総力を挙げた戦いでした。

 

必勝の態勢を整えた毛利氏は、尼子勢を撃破し、当面の危機を脱します。この戦いは、若き毛利家の当主輝元の初陣でしたから、見事な勝利に、元就はてばなしで喜んだようです。

 

しかし、初めて戦場を経験した輝元の感想は、単純な喜びではなかったようです。輝元が見た戦場の実態は、毛利氏から新たな給与「新恩」を与えられても、「古給」すなわち、それ以前までの所領に合わせた軍役しか果たしていない家臣が多く存在していたのです。

 

戦国期以前の武士にとって、新たな御恩「新恩」とは、特定の功績に対して与えられるもので、原則的にはその場限りのものであり、それに伴って、「奉公」すなわち軍役の量を増やすかどうかは、全く別の問題とみなすことが常識でした。

nt毛利家0905毛利輝元像

 

輝元は、こうした効率性の悪さが毛利軍の欠陥だとして、戦争が一段落したら、家臣団の給与を調べ直し、軍役量を契約によって定める「さらえ」を行うよう、元就に意見しています。

 

元就も、こうした問題は早くから意識してはいましたが、戦乱がうち続くなか、家臣団の反感を買う「さらえ」を徹底することは難しく、軍役量の定量化は、不十分なままでした。

 

一方、羽柴秀吉が率いた軍隊は、当時畿内で進行していた兵農分離により生まれた、戦闘に専従できる武士たちを、経済感覚に優れた子飼いの部将たちが、充分な兵站のもとで縦横に運用する新たな時代の軍隊でした。秀吉に毛利氏が圧倒されることは、よく知られていますが、初陣後の輝元が、こうした軍隊の必要性を痛感していたことは、案外知られていないようです。