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第204回

2014.08.08

nt毛利家0808通信符 写真は、毛利氏が大内氏から入手した「通信符」です。朝鮮王朝から大内氏に下された印で、折半された残り半分は、朝鮮側に残され、正規の使者であるとの確認に用いられたようです。朝鮮半島近海で海賊行為を行っていた倭寇勢力を沈静化するため、朝鮮王朝が大内氏を特に優遇して、この印を渡したとされます。

 

大内氏を滅ぼした毛利元就・隆元父子もまた、同等の待遇を得ようとして、朝鮮王朝への使節派遣を模索したようですが、須田牧子氏によると、その窓口を担っていた対馬宗氏の画策によって、遣使は阻止され、元就父子の願いはついに叶わなかったようです。

 

華々しく大陸と交渉していた大内氏と比べ、一般に、毛利氏は対外交流の実績に乏しいとみなされています。確かに、朝鮮との例にもみられるとおり、毛利氏は対外交易への希望は持ちつつも、それを実施するだけの経験・知識・人材に乏しく、実現できなかったようです。

 

その一方で、毛利氏の時代には、石見銀山が世界地図にも記され、日本国内の港を描いた絵画資料に外国船や外国人が描かれるようになります。また明国の海禁政策もかなり弛緩し、いわゆる「後期倭寇」とよばれる海賊的な海商たちが、日本近海にまで進出するようになったとされます。日本の銀は世界に広く知られ、銀に象徴される日本の富を求めた海商たちが、中国だけでなく、遙か西洋からも訪れるようになっていたのです。

 

毛利輝元の命によって、赤間関鍋城の代官を務めた高須元兼が所持していた旗には、中国海商が赤間関来港の節、商取引を約束した書付が記されています。また輝元は、元兼に対し、白糸などの舶来品を、赤間関で調達するよう命じています。こうして、日本に居ながらにしても海外の品が容易に入手できるようになり、遭難等のリスクを冒してまで使者を派遣する必要性が薄らいだことも、毛利氏が対外遣使に消極的となった一因には間違いないようです。