山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第203回

2014.08.01

nt毛利家0801日本国王之印 写真は、「日本国王之印」です。これは毛利元就が、大内氏を滅ぼしたときに手に入れたものと考えられています。

 

もともとは、金印だったそうですが、いつの間にか原印は消失し、現在の木製に改められたようです。印面を見る限りでは、溝は細くて深く、緻密で、とても当時の日本の技術でできたとは思いがたい出来です。この印に関しては、まだよくわからないことが多いのですが、とりあえず、日本の支配者として認められた室町幕府の三代将軍足利義満が、明国から与えられたものには間違いないようです。

 

足利義満は、応永八年(一四〇一)、明に使者を派遣し、自らを「日本国王」として認めるよう求めます。この交渉は成功し、義満は日本国王の待遇を手に入れました。義満は、朝貢貿易により莫大な利潤を得ることを目的にしていたといいます。また、政治的には、九州探題をはじめ、九州の諸勢力や大内氏が、独自に中国や朝鮮と交渉することを防ぎ、こうした利潤を手にすることや、日本を代表する権力者として認定されることを防ぐ目的もあったようです。

 

義満は、対明交渉に先立つ応永六年、周防・長門・豊前・筑前など六か国の守護職を有していた大内義弘を挑発、堺で挙兵させて、これを討ち滅ぼしています。この応永の乱は、幕府権力の強化を目指した義満による、大守護抑圧策としてよく知られていますが、対外交渉の観点からすると、中国地方西部から北部九州にかけて、大陸交渉にとって不可欠な海域を全面的に押さえていた大内氏を抑圧し、この地域の制海権を確保することが目的であったといえます。

 

毛利元就もまた、大内氏の討滅後、大内氏と同様にこの地域の制海権確保を目指します。そこで、九州における大内氏の権益継承をめざす大友義鎮と熾烈な争いを繰り広げますが、結局毛利氏は、広域な外交を繰り広げる義鎮の前に、九州撤退を余儀なくされるのです。