山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第201回

2014.07.18

nt毛利家0718招賢閣相見図 写真は、文久三年(一八六三)に、京都をおちのびた三条実美ら七卿を、周防国三田尻(防府市)に迎えた毛利敬親らの様子を描いたものです。

 

長州(萩・山口)藩を中心とする尊皇攘夷派は、この年四月には、上洛した将軍を追い詰め、攘夷決行を約束させました。さらに、決行日の五月十日、長州藩は他藩に先駆けて攘夷を決行し、朝廷から特に褒賞され、まさに絶頂の時を迎えていました。

 

しかしまもなく、長州藩が行った攘夷の実態が、商船に対する攻撃であったこと、外国艦船からの報復により、長州藩の軍艦が沈められたことが伝わります。また、攘夷を実行しない小倉藩に対し、その領地の一部を不法に占領し、海峡封鎖を続けていること、それに対して諸外国がひどく憤慨し、まさに日本が窮地に陥っていることも明らかになりました。

 

勢いづく攘夷派は、孝明天皇の大和行幸を計画するなど、さらなる攘夷を目指していましたが、八月十八日、突如朝廷から追放されました。長州藩は入京を禁じられ、三条実美ら尊攘派の公卿は、参内を差し止められます。翌日早朝、三条らは、長州藩士に護衛されて京都を脱出します。その後、瀬戸内海を西へ下り、長州藩領にたどり着いた様子が写真の絵なのです。

 

長州藩側では、この八月十八日の政変は、長州藩の天皇への忠誠を遮る薩摩藩や会津藩、佐幕派公卿たち君側の奸によるものだと考えて、何度も潔白を訴えます。しかし、藤田覚氏によると、このクーデターを主導していたのは、孝明天皇その人であったといいます。天皇は、過激な尊攘派の公卿が志士と交際し、自らの意図を越えて幕府を圧迫し、挙げ句には倒幕まで持ち出すことを、苦々しく思っていました。

 

朝廷の実権を天皇の手に取り返すこと、それがこの政変の実像でしたが、長州藩はそのようには考えていませんでした。この意識の落差が、長州藩をさらなる窮地に追い込むのです。