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第200回

2014.07.11

nt毛利家0711米船発砲ニ付尋問書 写真は、幕府から長州(萩)藩に対する詰問書です。

 

文久三年(一八六三)五月十日、幕府が定めた攘夷決行の期日に従い、同日夜アメリカ船を砲撃した長州藩は、翌朝、小倉藩領の楠葉村を砲撃しました。これは、小倉藩が攘夷を実施しなかったことに対する督促と制裁を意図したものだったようです。

 

また、長州藩が実施した攘夷そのものも問題でした。幕府の意図する攘夷決行とは、五月十日をもって、それ以前に結んだ条約破棄、外国人の日本退去の交渉を始めるというものでした。その談判が決裂した場合、やむなく武力を行使するのです。長州藩の外国船砲撃は、当然、こうした談判が決裂した結果ではなく、幕府としては、全くの勇み足でしかありませんでした。

 

その上、長州藩が砲撃したアメリカ船は、商船でした。日本に対する武力攻撃の意図は全くなく、井上勝生氏によると、幕府が認めた水先案内人を同乗させ、幕府の免状も所持していたのであり、長州藩の砲撃は、当時の国際法に照らしても、違法以外の何ものでもありませんでした。長州藩内でも、馬関総督の毛利能登は、こうした事情を勘案して、攻撃を制止していましたが、久坂玄瑞率いる光明寺党が、その指示を無視して砲撃を加えたといいます。

 

さらに翌月になると、長州藩は攘夷に協力しなかった小倉藩領に、兵と砲を上陸させます。これは、自立した支配領域と支配権をもつ「国家」としての藩に対する重大な越権行為で、江戸時代においては、最も重い罪の一つでした。

 

これら一連の行為は、すべて幕府の意向を無視したものであり、国内的にも、国際的にも認められるものではありませんでした。そのため、幕府は、朝廷から全面的に「征夷委任」を受けたことを根拠に、長州藩の無法を詰問したのです。これに対して長州藩は、答えにもならないような回答を繰り返し、幕府を、さらには孝明天皇すら激怒させることになります。