山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第199回

2014.07.04

文久三年(一八六三)五月十日、長州(萩)藩は、幕府の決定に従い、関門海峡を通過する外国船を砲撃しました。写真は、その報を受けた朝廷が、それを褒めた勅書です。

nt毛利家0704攘夷褒勅

 

度重なる朝廷の圧力に屈した将軍徳川家茂(とくがわいえもち)は、三代将軍家光以来となる上洛を挙行し、三月七日、参内(さんだい)を果たしました。藤田覚氏によると、幕府は、朝廷と直接交渉することで、孝明天皇から国政に関するすべての権限を委任される、いわゆる「大政委任」の獲得をめざしていたそうです。しかし、朝廷は、これに留保条件を付し、結果としては「征夷委任」、すなわち攘夷戦の指揮権しか認めなかったといいます。

 

 

将軍家茂の参内後、天皇は三月十一日に賀茂社、四月十一日に石清水八幡宮へ行幸し、攘夷祈願を行いました。天皇の御所外への行幸は、寛永三年(一六二六)に後水尾天皇が二条城へ行幸して以来、なんと二四〇年ぶりの出来事でした。この一連の行幸は、長州藩の世子(せいし)毛利元徳(もとのり)の建言によるそうです。尊皇攘夷派(尊攘派)の主導藩として、長州藩は、積極的に幕府へ攘夷実行の圧力をかけていたのです。藩主の敬親(たかちか)はこのとき山口にいましたから、代わって世子の元徳が在京し、様々な工作を行っていました。

 

こうした度重なる朝廷・長州藩の圧力に屈した幕府は、いわば苦し紛れの回答として、五月十日の攘夷決行を約束するのです。

 

こうした成り行きでしたから、長州藩以外の諸藩は、攘夷を実行しませんでした。この勅書が、長州藩が「期限を誤らず」攘夷を実行したことを賞し、「隣藩へも応援を命じた」と記されているのは、そのような事情を反映しているのでしょう。

 

しかも、朝廷は、わざわざ、勅使正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)を長州藩に下して、この勅書を手渡したのです。まさに長州藩にとっては、絶頂の時でした。