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第198回

2014.06.27

nt毛利家140627糸巻太刀 文久三年(一八六三)正月十七日、長州(萩)藩主毛利敬親は、宮中にて、参議昇任の宣旨(せんじ)を受けました。じつに、藩祖毛利輝元以来の、まさに異例中の異例の昇進でした。

 

写真は、そのとき朝廷から下された糸巻太刀(いとまきのたち)の拵(こしらえ)です。

 

これより先の文久二年五月、薩摩藩の島津久光は、勅使大原重徳を伴い、江戸へ下ると、七月には、一橋慶喜らを幕政に参画させる幕政改革を実現していました。藤田覚氏によると、この時期、和宮降嫁による公武合体の実を挙げて、幕府を改革して強い中央政府を作り、諸外国と対峙させようとする公武合体派、幕府に対して条約を破棄し鎖国攘夷を迫る尊王攘夷派(尊攘派)が、両派ともに、天皇の支持を後ろ盾に、その政治目標を実現しようとしたため、孝明天皇の権威はこれまでになく高まったといいます。

 

その年七月、長州藩が、それまでの藩是三大綱を修正し、「天朝へ忠節」を確守する方針へ転換したのは、こうした情勢の変化に対応するためでした。

 

そのころ朝廷内では、三条実美ら、尊攘派の公家たちが巻き返しに努めていました。公武合体派の公家たちを排斥し、八月には和宮降嫁で活躍した岩倉具視らの罷免に成功しています。さらに十一月には、幕府に詰め寄り、安政の大獄で処分された吉田松陰らを、大赦令により復権させるなど、幕府や、朝廷内の公武合体派に対する圧力を強めつつありました。

 

なぜこの時期に敬親が、異例の昇進を遂げたのか、その直接の契機は定かではありません。幕府が、敬親を積極的に昇進させようとする理由は、当然見当たりませんから、朝廷の意向によるものだと考えられます。薩摩藩にくらべて、一歩も二歩も出遅れた感のある長州藩が、いかにして朝廷の内部に食い込み、薩摩を超える信頼を勝ち得たのか、そのあたりの事情については、案外まだよくわかっていないように思われます。