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第197回

2014.06.20

訂_毛利家140214半5 写真は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親が自筆で記した、家臣たちに対する訓示です。

 

それまで長州藩が、「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道」を同時に成り立たせる、「藩是三大綱」を基本方針としていたところ、このたび、孝明天皇の攘夷への強い意志に添って、朝廷と幕府の間を周旋する、と朝廷に申し上げた上は、「天朝への忠節」を第一とし、「幕府への信義」と「祖先への孝道」は、「天朝への忠節」を尽くした上で実現することに転換するので、「国家(長州藩)」のために力を尽くしてほしい、という内容です。

 

長州藩は、激動する情勢への対応として、安政五年(一八五八)「藩是三大綱」を定めました。その後、孝明天皇が攘夷を強く望んでいることを確認した長州藩は、この訓示が出された文久二年(一八六二)七月、藩是を、「天朝への忠節」を第一とすることに転換したのです。

 

この転換にあたり、久坂玄瑞ら強硬な攘夷派が、激しく運動していたことはよく知られています。また、この藩是転換が確定した、敬親御前での会議の様子は、井上勝生氏によって詳しく紹介されています。ただ、久坂らの意見が、藩中枢にどのように吸い上げられ、藩政の決定にどう影響を与えていたのか、あまりはっきりしません。

 

またこの訓示で、幕府を「幕府」と名指ししている点は注目されます。それまで幕府は、日本全土を統治する公権力として「公儀」と呼ばれていました。たしかに敬親は、「天朝」と「幕府」という文字の直前で改行し、平出と呼ばれる敬語表現を用いています。敬親自身の幕府への敬意は、なお強固だったようです。しかし同時に「幕府」「信義」の表現からは、徳川幕府に対し、日本全国を統治する、藩より高次の公権力としてではなく、「天朝」の下で、防長二州の地域支配権力である「国家(長州藩)」と並び立つ、あくまでも対等な権力として、以後臨んでいこうとする長州藩の姿勢が垣間見られるようで、注目されるのです。