山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第196回

2014.06.13

nt毛利家0613戊午の密勅 写真は、いわゆる「戊午(ぼご)の密勅(みっちょく)」と呼ばれているものです。

 

安政五年(一八五八)六月、幕府は、孝明天皇の許可が得られないまま、アメリカとの間に日米修好通商条約を結びます。この独断での条約調印は、天皇を憤慨させますが、外交における幕府の判断は尊重しなければならず、その後の対処について天皇は苦悩します。

 

この密勅は、苦悩する天皇の意を察した近臣中山忠光が、外国の動向に対する懸念や、異変が発生したときの、内裏警備についての支援を、長州(萩)藩に求めて記したものです。

 

道迫真吾氏によると、安政五年八月、公家の鷹司家を経由してこの密勅を入手した長州藩では、翌月、周布政之助(すふまさのすけ)が直接京都に上り、鷹司輔煕らに拝謁して、その真意を確認するとともに、攘夷の不可を説き、藩主敬親の出兵上京も拒絶したようです。

 

こうした依頼は、長州藩以外にも水戸・薩摩・土佐・越前などの各藩にも送られたようですが、この時期には井伊直弼による安政の大獄が猛威をふるっていた時期でもあり、どの藩も結局は動かなかったとされています。

 

しかし長州藩は、ちょうどこの年六月、相模の警備を解かれ、条約によって開港が約束された兵庫の警衛を幕府から命じられていました。これは、相模警衛の実績が高く評価されたことによると思われます。この時期以降、朝廷と長州藩との関わりが深くなり、長州藩が攘夷論に転じるのですが、それと兵庫警衛がどのような関わりを持つのかは、よく分かっていません。

 

また、当初、開国やむなしと唱えていた周布もまた、結局は攘夷論に転じ、長州藩を攘夷の方向で導いていくことになりますが、彼が何を契機に攘夷に転じるのか、転じることによって何を目指していたのかは、必ずしも明快ではないように思われます。