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第195回

2014.06.06

nt毛利家0606相州警衛幕令 写真は、幕府から萩(長州)藩に下された命令書です。冒頭の「松平大膳大夫」と記されているのが、十三代藩主毛利敬親のことです。

 

これは、付属する書付によると、嘉永六年(一八五三)十一月十四日に、召しによって江戸城に赴いた敬親が、老中から下されたもののようです。このとき、敬親は、外国船の来航に備えて、それまで相模国(神奈川県)の沿岸部を警備していた井伊直弼(彦根藩)・松平典則(川越藩)に替わり、細川斉護(熊本藩)とともに警備せよと命じられています。

 

田中誠二氏によると、相模警衛を萩・熊本二藩で対応させたのは、似たような任務を、格式・待遇の似通った藩に競わせて、防衛の実を挙げようとする幕府の策であったとのことです。更にこの命令書では、対岸の房総半島警備に関しては、池田慶政(岡山藩)・立花鑑寬(柳川藩)二手に命じたとも記していますから、いやが上にも萩藩毛利家としては、他の三藩との対抗上、迅速かつ適切に、できれば幕府の期待以上に働かざるをえなかったことでしょう。

 

ここで海防に関する実力を示した萩藩は、安政五年(一八五八)には、日米修好通商条約において開港が約束された兵庫の警衛に転じます。相模・兵庫と続く対外防衛への動員は、藩としては相当な負担であったようです。これら負担への褒賞として、敬親は、翌年十二月に左近衛権中将に任じられています。初代藩主秀就が少将に止められて以降、毛利家は、少将成すらおぼつかず、ようやく七代重就以降、特別な由緒のある場合に限って少将に任じられることがある程度の家格とされていたようです。したがって、敬親の中将成は、まさに萩藩毛利家にとって、快挙と呼ぶべきめでたい出来事だったようです。

 

また、このころから萩藩は、急速に朝廷との関係を深め、急進的な攘夷派として中央政界に躍り出ます。しかしこの動向が兵庫警衛とどう関わるのか、必ずしも明らかではありません。