山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第194回

2014.05.30

nt毛利家140530毛利敬親像 写真は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親(もうりたかちか)の肖像画です。いやに写実的な墨絵ですが、幕末に撮られた写真をもとに、おそらく敬親の死後、狩野松洲という絵師が描いたものだろうと思われます。写真をもとにしていますから、多少見栄えをよくした以外は、敬親の真の姿を伝えているのでしょう。口を真一文字に結び、なかなか意志の固そうな風貌です。

 

敬親は、文政十二年(一八二九)、十一代藩主を務めた毛利斉元(なりもと)の長子として生まれました。藩主の子とはいえ、斉元のいとこで、十代藩主を務めた斉煕(なりひろ)が大殿として実権を握り続けていましたし、十二代藩主には斉煕の子、斉広(なりとお)が予定されていましたから、敬親が藩主となる可能性は、当初ほとんどありませんでした。

 

次期藩主である世子(せいし)は、藩から届け出され、幕府に認められると、江戸で暮らさなくてはなりませんでした。これは、幕府の定めによりますが、藩としても、次代の藩主に早くから幕府との交渉術を学ばせ、他藩主との社交を身につけさせるため必要なことでした。

 

敬親は、少年期を萩で過ごしていますから、将来藩主になる人物だとは目されていなかったのでしょう。後年藩主となったばかりの敬親自身が、そのように家臣の前で述べていますから、敬親自身もそのように考えていたようです。

 

天保八年(一八三七)、敬親は、前年末に急死した藩主斉広の跡を継ぎ、藩主となります。

 

急遽江戸に呼び出された敬親は、江戸に着くまで斉広の死を知らなかったようです。敬親の襲封は、男子がいなかった斉広の遺命とされています。なぜ今際の際の斉広が、敬親を指名したのか、理由は明らかにされていません。斉広には異母弟の信順もいましたし、大殿斉煕とともに藩政に影響を与えた正室法鏡院も健在でした。何か明確な理由があって、突如敬親に白羽の矢が立てられたはずですが、これまでの研究では、そうした点は特に説明がないようです。