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第193回

2014.05.23

訂_毛利家140214半5 写真は、毛利輝元の叔父小早川隆景が、輝元の側近粟屋元種に宛てた書状の案文です。

 

天正六年(一五七八)十一月六日に行われた二回目の木津川合戦直後に記されたもので、当時の、織田信長との上方における戦況を伝えたものです。

 

信長側の記録では、合戦は信長大勝利と記されています。しかし、ここで隆景は、毛利方が勝利したと書いています。実態は定かでありませんが、簡素な記述ですから、実際の戦闘は、一回目の合戦ほど大きなものでなく、小競り合い程度で毛利水軍が引き上げたのを、信長が大げさに自らの勝利として宣伝したのでしょう。石山本願寺から宇喜多直家への知らせにも、毛利氏の水軍は無事木津浦に着岸したとありますので、毛利水軍は、当面の目標である、本願寺への兵糧搬入に成功したので、さっと引き上げたのが真相なのでしょう。

 

むしろ毛利氏にとって、大きな収穫は、信長方の有力部将荒木村重が、石山本願寺に味方すると申し入れたことでした。村重は、この合戦の直後、本願寺に人質としての息女を提出し、血判の誓詞を提出するとともに、本願寺包囲のための付城を破却していました。

 

村重は、有岡城(兵庫県伊丹市)を拠点に活動していた、信長の摂津攻略の鍵を握る部将でした。当時毛利氏は、将軍足利義昭の力を借りて、摂津だけでなく、大和・河内・和泉など、信長の足下、畿内各地に大規模な調略を仕掛けていました。村重はこうした調略に応じたのでしょう。信長にとっては、まさに青天の霹靂だったらしく、即座に二万の兵を率いて上洛し、摂津攻略を目指したようです。これに対して村重は、本願寺との連携を強めて、紀州の雑賀衆の支援も受けて、籠城の姿勢を固めたようです。

 

播磨においても御着城の小寺氏や三木城の別所氏など、名だたる国人がすべて毛利氏に属し、隆景は、このときこそ毛利氏の総力を挙げて、信長との決戦を準備すべきだと訴えています。