山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第192回

2014.05.16

特別什書0342「毛利氏和戦対策書」【大日古336】①ほっぷ192 写真は、毛利氏が織田信長と対決するにあたり、和戦両様の得失を話し合った時のメモです。

 

これによると、戦をせず信長と和した場合、やがて五畿内を制するであろう信長が、宇喜多直家をも味方に引き入れて、現在より手強くなった上で、毛利氏に攻勢を仕掛けてきたら、どうするかという点が、最も重要な問題になったようです。

 

さらに、戦争になった場合、最後に懸案として残された問題は、宇喜多直家が、最後まで毛利氏に協力してくれるか、という点だったようです。

 

毛利氏は、信長との和戦を決める上で、宇喜多氏の動向を最も警戒していたのです。直家は、播磨国(兵庫県)や備前国(岡山県)の守護赤松氏の重臣浦上氏に仕える武士でした。祖父能家(よしいえ)あたりから頭角を現し、浦上氏奉行としての活動が見られるようになります。

 

宇喜多氏が拠ったとされる砥石城(岡山県瀬戸内市)や沼城(岡山市)は、いずれも吉井川の下流域を押さえる重要な拠点でした。また、のちに宇喜多氏の重臣となる明石氏は、やはり吉井川の中流域を押さえる有力な領主でした。これらから宇喜多氏は、吉井川の交通を基盤に、勢力を拡大した武士だと考えられています。その後、備前国を流れるもう一つの大河、旭川流域の、やはり河川交通を押さえていたと覚しき穝所(さいしょ)氏や松田氏などを滅ぼして、備前国一帯の交通網を統合する武士として台頭したようです。

 

そのころから、主君である浦上宗景との確執が表面化しました。当時宗景は、豊後(大分県)の大友宗麟(そうりん)と手を結び、尼子氏の残存勢力を支援するなど、毛利氏と対立していました。毛利氏は宗景を抑えるため、宇喜多直家と手を結びます。宇喜多氏と毛利氏との関係は、一時的な利害の一致に基づく同盟に過ぎませんでした。したがって、信長という強敵を前に、直家がどのような判断を下すか、毛利氏としては予断を許さなかったのです。