山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第191回

2014.05.09

毛利家絶対な基本形半5_cs6これは、毛利元就が、播磨国龍野城(兵庫県たつの市)の赤松政秀に依頼して、長船清光(おさふねきよみつ)に作らせた刀の茎(なかご)部分の写真です。銘文の裏には、「天文二十三年八月吉日」とあることから、厳島合戦のちょうど一年ほど前に作らせたことがわかります。

 

元就は、陶晴賢との決別以前から、出雲(島根県)の尼子氏が、陶晴賢と手を組み、毛利氏を挟撃することを恐れていました。そこで、播磨国で尼子氏と対立していた赤松政秀に呼びかけ、尼子氏を牽制しようとしたのです。同盟成立の証がこの刀だったのでしょう。

 

播磨や備前国(岡山県)では、尼子氏の侵攻により、守護赤松氏が没落した後、配下の領主たちがせめぎ合っていました。赤松氏の守護代も務めた浦上氏の下で、徐々に勢力を拡大し、やがて浦上氏をも凌駕する勢力に成長したのが、宇喜多直家(うきたなおいえ)です。

 

尼子氏を押し込めるため、毛利氏は、尼子氏の勢力が浸透していた備中・備前・美作(岡山県)や播磨の領主たちに、早くから手を伸ばしていました。直家が仕えた浦上氏もまた、政宗・宗景兄弟の対立に尼子・毛利両氏が荷担することで、血みどろの抗争を繰り広げていました。

 

この抗争をかいくぐり、勢力を固めた宇喜多直家は、後世に作られた軍記物では、権謀術数の権化のように描かれています。激しい戦乱で資料が失われたため、直家の実像を明らかにすることは難しいのですが、直家の家臣団構成や、戦いの軌跡を見る限りでは、直家が、備前国の大河吉井川の河川交通を基盤に、流域一帯の勢力をまとめ上げ、その後備前中央を流れる旭川の河川交通をも掌握することで勢力を拡大したことはまちがいないようです。

 

織田信長との対決に先立つ記録を読むと、毛利氏は、信長と対決しないことで、直家が信長に帰属し、毛利氏の領国に攻勢をかけてくることを、最も危惧していました。信長との戦いは、毛利氏にとっては危険な賭けでしたが、直家の動向を鑑みると戦わざるを得なかったのです。