山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第190回

2014.05.02

毛利家140502刀_長船国光yoこれは、山中鹿介(しかのすけ)所用とされる刀の茎(なかご)の写真です。鹿介といえば、主家尼子氏の再興をめざし、最期まで毛利氏と対立した武将として知られています。

 

この刀は、その鹿介の遺品として、毛利家に伝えられました。茎の表の部分には、作者の長船国光(おさふねくにみつ)の銘が刻まれていますが、裏銘には、写真のとおり「天文八年二月吉日」と記され、この刀が天文八年(一五三九)に作られたことがわかります。

 

長船国光は、その名のとおり、備前国(岡山県)の長船の刀鍛冶だと思われます。尼子氏は天文六年から天文九年まで毎年、その本国出雲国(島根県)から、美作国(岡山県)を経由して備前国や播磨国(兵庫県)に侵攻を繰り返していました。

 

長谷川博史氏によると、この侵攻は、「上洛」と号して、軍事行動を繰り返すことにより、本国出雲の諸領主を統制することが最大の目的であったといいます。また、侵攻を繰り返し、播磨・備前の伝統的な守護である赤松氏を駆逐し、現実に上洛の道筋をつけるだけでなく、室町幕府や石山本願寺など、畿内の諸勢力に対して、尼子氏が上洛できるだけの実力を持つ大名であると印象づけ、外交的に周防の大内氏を牽制することが目的であったといいます。

 

尼子氏の侵攻は、伝統的な守護赤松氏の支配を完全に崩壊させるとともに、浦上氏や上月氏・小河(おごう)氏など、その配下の国人領主相互の対立を激しくさせ、播磨国にさらなる混沌をもたらしました。のちにこの地が、毛利・織田両氏の対決の場となった歴史的な背景には、こうした尼子氏による攪乱も大きく影響しているのでしょう。

 

山中鹿介が国光に刀を作らせたのは、まさに尼子氏の勢力が播磨・備前に浸透している時期でした。信長が、尼子勝久・山中鹿介らをして、毛利氏に対する備えとし、播磨・備前・美作国境の要衝上月城を守らせたのは、鹿介の地理勘に期待するところがあったのかもしれません。