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第188回

2014.04.18

毛利家140418縹糸胸紅白威胴丸yo写真は、毛利隆元が、妻である尾崎局(おざきのつぼね)の父内藤興盛から譲られた甲冑「縹糸胸紅白威胴丸(はなだいとむねくれないしろおどしどうまる)」です。

 

総体をつづる縹色の色糸が今なお鮮やかで、すがすがしいイメージの甲冑です。また、全体の形もよく整っています。さらに、細かく見ると、こめかみを保護する兜の吹返(ふきかえし)には、獅子が蒔絵で描かれるなど、さすがは大内氏の重臣のものらしい、洗練された美しさにあふれた甲冑です。また、手の甲を保護する手甲(てっこう)には、内藤家の家紋である「下藤(さがりふじ)」がやはり蒔絵で描かれています。

 

この甲冑が譲られるとき、内藤興盛から隆元に宛てた書状には、この甲冑は、船岡山合戦以来の歴戦の中で、興盛が着用してきた甲冑だと記されています。永正八年(一五一一)に京都の北、船岡山で行われたこの戦いは、当時、将軍足利義稙(よしたね)を擁して上洛していた大内義興が、敵対勢力を撃破して、京都の支配権を回復した、重要な戦いでした。

 

義興は、京都政界の重鎮細川政元の暗殺を契機に、大内氏の全領国だけでなく、それまでは支配の及んでいなかった出雲や備後国東部の諸将をも率いて、永正五年に上洛を果たしました。しかし、細川澄元ら、敵対勢力の反攻により、丹波国への撤退を余儀なくされました。この間、情勢不利とみた、毛利氏や吉川氏など、安芸・石見の国人領主たちのなかには、決戦に先立ち無断で帰国する者も続出したようです。

 

船岡山での勝利は、まさにこうした退勢を一挙に回復する、まさに起死回生の一勝でした。また、若くしてこの戦いに参加し、めざましい武功を挙げた内藤興盛にとって、この甲冑はまさに栄誉の品でした。その栄誉の品を、実の子や孫ではなく、隆元に譲ったのですから、興盛は、隆元の将来性を、よほど高くかっていたのでしょう。