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第187回

2014.04.11

毛利家絶対な基本形半5_cs6写真は、長州(萩)藩の初代藩主毛利秀就が、慶長四年(一五九九)に、父の輝元に伴われて、初めて大坂城の豊臣秀頼に拝謁したとき、秀頼から与えられた少年用の具足です。

 

もともとは秀頼用に作られたのでしょうか、よろいを構成する小札(こざね)とよばれる部品にはすべて金箔が押されています。その上、総体は艶やかな白糸で威された、豪華でかつ颯爽とした感のある胴丸です。兜は烏帽子形、正面に獅噛(しかみ)とよばれる想像上の動物をかたどった前立が付けられています。もとは銀箔押だったようです。ただ残念ながら、現在は銀が黒化し、在りし日の姿は想像するしかありません。白糸といい、銀箔といい、秀就が拝領した当時は、陽光を浴びてきらきらとしていたことでしょう。

 

兜鉢の側面に、金泥で朝顔が描かれていることから、「朝顔小具足(あさがおのこぐそく)」と呼ばれ、長らく毛利家の家宝とされてきました。秀就は、このときわずか五歳でしたが、秀頼を烏帽子親として元服し、従五位下侍従に任じられています。驚くことに、その翌々月には、従四位への昇進を遂げ、毛利家歴代の中でも異例の出世を遂げています。

 

当時は、豊臣秀吉の死に続き、五大老の重鎮前田利家も死去したことから、徳川家康の台頭が著しく、家康の対抗馬としての毛利氏に期待が集まっていました。秀就に対する厚遇は、こうした豊臣氏側の意向が強く働いていたものと思われます。同時に、なかなか子の生まれなかった輝元にとっては、少しでも早く、我が子秀就の立場を固めておくことは、何にもまして望ましいことだったに相違ありません。

 

翌年の関ヶ原の戦いで輝元・秀就父子が一敗地にまみれ、以後、こうした栄誉から遠ざかることは周知の通りです。それだけに、このときの大坂での具足拝領や、異例ともいえる昇進は、毛利家ならびに秀就にとって、忘れ難い栄光だったのでしょう。