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第186回

2014.04.04

nt毛利家140404有職雛 写真は、幕末の藩主毛利敬親の正室都美姫(とみひめ)所用の有職雛です。京都御所の紫宸殿を模したと覚しき御殿に、内裏雛、官女・公家・随身(ずいじん)・楽人ら合わせて三十数体の人形が一揃えになった、とても豪華なものです。箱の貼り紙から、この雛人形は、江戸末期に上野池之端に店を構え、その豪勢で華美な雛人形が、もっぱら貴人御用達として知られていた、七沢屋(ななさわや)の雛人形だとわかる、貴重な遺例だそうです。

 

都美姫には、この人形のほか、次郎左衛門雛と、毛利家の家紋「沢瀉(おもだか)」が蒔絵された雛道具が残されています。都美姫の父は、十二代藩主斉広(なりとお)でした。これらの雛道具からは、彼女が毛利宗家の姫として育てられた様子を垣間見ることができそうです。

 

一方の敬親は、都美姫の祖父(斉広の父)であった十代藩主毛利斉煕の従兄弟にして、十一代藩主を務めた、毛利斉元(なりもと)の長子として生まれました。したがって都美姫と、敬親とは、血縁でありながら結婚したことになります。

 

前近代社会において、家の結束を固めるため、同族内部で結婚を重ねることは、決して珍しいことではありませんでした。

 

たとえば、毛利元就の父弘元は、庶家であった福原広俊の娘を正室に迎えています。毛利氏は、弘元の父豊元の代に、惣領家に長らく敵対してきた有力庶家の麻原(おばら)氏を追放することに成功しました。しかし、それでもなお惣領家の権力は、盤石とはならなかったからなのです。その後元就が、従兄弟福原氏の支援により家督を継承したことや、孫の輝元が関ヶ原後の難局を、福原氏の支援のもとに乗りきったことは、みなさんもよくご存じのことでしょう。

 

ただ、藩主権力も強化され、安定した地位を作り上げていたはずの敬親の時代に、なぜ同族婚を行ったのか、そのあたりを的確に説明できるだけの材料はまだ見いだせていないようです。