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第182回

2014.03.07

nt毛利家140307幸姫所用の桂 写真は、十二単(じゅうにひとえ)の上着にあたる袿(うちき)です。実際には、この上から唐衣(からぎぬ)・裳(も)という衣装を着用するのですが、それらは薄絹の、しかも丈の短い短衣ですから、この袿が実質的な上着に相当する部分だといえます。

 

この袿は、萩(長州)藩の九代藩主毛利斉房(なりふさ)の正室となった幸姫(ゆきひめ)の婚礼装束の一部とされています。全体が鮮やかな紅色の色糸で仕立てられた生地に、吉祥文様とされる亀甲文を地文様とし、唐花(からはな)を分割して丸く重ねた浮線綾(ふせんりょう)文様を全体に織り表した、いかにも婚礼衣装にふさわしい、めでたく華やかな衣装です。

 

幸姫は、皇族のうちでも代々親王を称することを認められた、いわゆる世襲親王家の一つ、有栖川宮家(ありすがわのみやけ)より嫁いだ女性です。毛利家としては、四代藩主吉広が、五摂家の一つ鷹司家より室を迎えて以来、約百年ぶりに宮廷社会より迎えた正室でした。

 

毛利家は、戦国大名になる以前はもちろん、大名となった後も、基本的には代々武家から正室を迎えていました。吉広が鷹司家より正室を迎えたのは、むしろ異例に属していました。

 

したがって、宮家の出身である幸姫の輿入は、毛利家にとって、前代未聞のことでしたが、その経緯や歴史的な意義、影響については、まだよく分からないことが多いようです。

 

残念ながら、武家が圧倒的に優勢な近世社会において、京都の貴族から正室を迎えることの歴史的な意義は、決して大きくないと考えられているようです。また、当時の世襲親王家は藤原氏の氏長者である、現職の摂政・関白より下位に位置付けられていたそうですから、宮廷内における発言力も決して大きなわけではありませんでした。倒幕の過程で、この有栖川宮家が重要な役割を果たすことは周知のことですが、幸姫輿入当時の毛利家が、この結婚に、どれだけの政治的な期待を込めていたかは、慎重に検討しなくてはならないようです。