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第179回

2014.02.14

毛利家絶対な基本形半5_cs6 写真は、毛利家伝来の雛人形の一つ、「有職雛(ゆうそくびな)」の写真です。

 

京都の御所を模した御殿に、内裏雛以下、公家・官女・楽人・白丁など、総数三十体以上の人形が一揃いになった、大名家ならではの豪華な雛人形です。納箱の蓋裏に貼られた札から、江戸時代の後半に、江戸は上野池之端に店を構え、大名など上流階級の人々に雛人形を提供していた七沢屋(ななさわや)の雛人形であるとわかります。

 

毛利家の所伝では、毛利敬親の正室都美姫(とみひめ)所用の雛人形だとのことです。敬親といえば、幕末の難局を乗り切り、萩(長州)藩を、明治維新の立役者に導いた藩主として知られています。彼は、文政二年(一八一九)、萩藩の十一代藩主毛利斉元(なりもと)の長子として生まれますが、すでに先代藩主毛利斉煕(なりひろ)には、実子保三郎(後の十二代藩主斉広)が生まれていましたので、順当にいけば、藩主となる可能性のない人物でした。

 

斉広の急死により、十三代藩主となった敬親ですが、斉広の忘れ形見、都美姫が、敬親の正室として迎えられました。『もりのしげり』などによると、養子とはいえ兄妹となった敬親と都美姫を、そのまま結婚させることは難しかったためか、都美姫は、斉広の娘ではなく、庶家の出として幕府には届けられ、敬親の下に嫁いだようです。かなり複雑な手続きを経ていますが、それだけ斉煕の血統が重視されたということなのでしょうか。

 

都美姫が敬親の下に嫁いだころは、斉煕の正室法鏡院が、奥向をとり仕切っていました。藩主となった敬親にも、彼女はいろいろと意見することもあったようです。都美姫は、斉煕・斉広の血を引き継ぐ大切な女性ですから、法鏡院が彼女の養育に力を注いだのでしょう。この豪華な雛人形を見る限りでは、都美姫が、藩主斉広の娘として、大切に育てられていたことは間違いないように思われます。