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第178回

2014.02.07

ちまたでは黒田官兵衛に興味が集まっているようですが、黒田官兵衛が生まれた天文十五年(一五四六)という年には、毛利家でも大きな変化が訪れていました。

 

それは、毛利元就の隠居と、嫡男隆元の家督相続です。周知のごとく元就は、大永三年(一五二三)、二十七歳の時、急死した甥幸松丸の後継者となります。以後二十年以上にわたって毛利家の当主として、毛利氏の勢力安定と拡大に努めました。家督相続後まもなく、長年芸北において勢力を誇っていた高橋氏を討滅、その所領を併せて勢力を倍増させただけでなく、天文十年(一五四一)に郡山城を包囲した尼子氏を撃退すると、鎌倉時代に安芸国の守護を務めていた武田氏をも滅ぼし、その旧領の一部を領有することを大内氏から認められるなど、まさしく毛利氏を安芸国最大の国人領主に成長させたこともよく知られているところでしょう。

 

nt毛利家140207自画像

しかし、岸田裕之氏によると、天文十五年当時の毛利氏は、必ずしも順風満帆というわけではなかったようです。確かに郡山城の合戦では、尼子氏撃退に成功しましたが、尼子氏から新たな所領を奪ったわけではありませんでした。またその直後には、大内氏の命により、出雲に遠征したものの、尼子氏の反撃にあって退却、以後は尼子氏への協力者たちとの間に一進一退の攻防を続けていました。この間元就は、大内氏方国人領主の指導者として、芸備各地を転戦していましたが、必ずしもそれに見合うだけの所領の拡大はなく、元就配下の武士たちも、いわばただ働き同然で戦場に赴いているのが実情でした。御恩と奉公がつりあわなければ、下剋上も当たり前の戦国時代、元就はこの状況を、毛利氏の危機と考えていたようです。そこで自らは引退し、新たな当主隆元の下で、体制立て直しを図ったとされます。

 

陶晴賢との決戦を強く主導したのは隆元でした。その結果、毛利氏が戦国大名化することに成功したのですから、元就の意図は十分成果を収めたのではないでしょうか。