山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第177回

2014.01.31

nt毛利家140131竹透鐔写真は、毛利元就の依頼で、赤松政秀が配下の長船清光に作らせた刀の鐔(つば)です。

 

鐔とは、刀の刀身と柄(つか)とを隔て、握り手を保護するためのものです。これは鉄製で、竹の節を円形にあしらい枠とし、内側を透かして笹をかたどった、洒落たデザインの鐔です。

 

元就の依頼を受けた赤松政秀は、播磨国(兵庫県)の龍野城を拠点にしていましたが、播磨国制圧を目指す大名尼子氏の支援を受けた室津の浦上政宗らと激しく対立していました。

 

当時陶晴賢と対峙していた元就にとって、懸念であったことは、背後を尼子氏に衝かれ、晴賢との両面戦争に突入することでした。そこで元就は、備前国(岡山県)や播磨国で、尼子氏と敵対していた赤松氏との共闘をもちかけ、尼子氏が芸備(広島県)に南下できないよう工作したらしく、その盟約の証として作られたのが、この鐔だったようです。

 

赤松政秀も、浦上政宗も、その実名の「政」の字が示しているように、本来は赤松宗家の主赤松晴政配下の武将でした。しかしながら、京都政局の混乱や、隣国の戦国大名尼子氏の侵攻に巻き込まれ、内部で分裂をおこして、激しく対立するようになっていました。その結果、かつては、室町幕府成立を助けて、四職の一つとされ、幕政にも関与した名門赤松氏も凋落し、その領国播磨・備前・美作三国(兵庫・岡山県)は混乱を極めていました。

 

その様子を冷静に眺めていたのが、毛利元就でした。元就は、まだ戦国大名として自立する以前から、遠く播磨国の情勢を分析し、陶氏との決戦を前に、播磨・備前両国の反尼子勢力と手を組もうとしたのです。その後元就は、赤松氏の醜態を他山の石として、戦国大名化した毛利氏の下で、関係がぎくしゃくし始めていた子どもたちに、結束を求めていきます。

 

こうした歴史的な経緯を含めていうならば、この鐔は、美術的にもおもしろい作品ですが、元就の卓越した情報収集力や、思考の源を、今に伝える貴重な歴史資料でもあるのです。