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第176回

2014.01.24

nt毛利家140124寿老人図 写真は、正月などめでたい席に使われたであろう掛軸です。特徴的な長い頭に、ありがたい経巻を杖につるし、鹿に乗っていることから、長寿を司る神の「寿老人(じゅろうじん)」、もしくはそれと同一神とされる七福神の一人「福禄寿(ふくろくじゅ)」であるとわかります。

 

作者は、狩野常信(かのうつねのぶ)、古川(こせん)ともいい、江戸時代前期に、幕府の御用絵師として活躍した人物です。その福々しく柔和な姿は、戦乱の終結した平和な時代にふさわしい絵のように思われます。それは前回紹介した、近代の写実主義を追い求めた狩野芳崖が描いた寿老人図と比較してみると一目瞭然でしょう。

 

現在毛利博物館には、この常信作の絵画が数点伝来しています。やはり幕府御用絵師として名声の鳴り響いていた常信の絵を、毛利家としても求めた結果でしょうか。

 

萩藩(長州藩)毛利家の御用絵師としては、雪舟の流れを汲むと称した雲谷派(うんこくは)が著名です。しかし、現在までに毛利家からは、彼らの作品のほとんどが散逸してしまい、萩藩内部での狩野派と雲谷派との位置付けは、必ずしも明らかにされていません。

 

山本英男氏によると、雲谷派の始祖雲谷等顔が、毛利輝元から、「四季山水図(山水長巻)」と、雪舟のアトリエ「雲谷庵」を拝領したのは、等顔が、輝元の広島築城で大きな功績を挙げたからであろうと推測されています。また等顔は、大徳寺や仏通寺など、毛利家ゆかりの寺社で絵筆をふるっており、その名声の程を知ることができます。

 

ただ面白いことに、江戸初期に記された藩内の公的な文書には、等顔の名が、「狩野等顔」と記されているのです。これは、等顔が、はじめ狩野派に師事していたため、そのように呼ばれていたと考えられています。たしかに、等顔が藩内で狩野派の一派とみなされていたことが、等顔が藩内で重宝され、巨大な流派を築くことに成功した一因であることは確かなようです。