山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第175回

2014.01.17

毛利家140117福禄寿図yo 写真は、「福禄寿図」です。中央に描かれている険しい表情の老人が、長寿を司る神の「寿老人」です。頭上に描かれている蝙蝠(こうもり)は、音が福(フク)に通じることから、幸福を表すとされます。また、手前の鹿は、富貴を意味する「禄(ロク)」に通じるとされます。これは、一つの絵に幸福・富貴・長寿の、人が幸福と願う三つの画題を取り込んだ絵なのです。

 

通常、江戸時代の寿老人は、もう少しふくよかな、いかにも福の神として描かれますが、この寿老人は、顔に刻み込まれた皺といい、眼光鋭い眼差しといい、やや奇異な感もあります。

 

この絵を描いたのは、下関市出身の狩野芳崖という人物です。芳崖といえば、明治初年に日本美術を高く評価した、いわゆる「お雇い外国人」のフェノロサ庇護の下、橋本雅邦らと、伝統的な水墨画を、近代日本画へ発展させる重要な役割を果たした人物として知られています。

 

芳崖は、萩藩の支藩長府藩主毛利家の御用絵師狩野晴皐(せいこう)の子として生まれました。家業を継ぐため、年若くして江戸に出て、当時幕府御用絵師の主流であった木挽町狩野家の狩野勝川の下で修業を積んだとされます。その成果が評価されたのか、父とは別に禄を与えられ、長府藩の御用絵師として活躍していたようです。

 

芳崖の家は、桃山時代に狩野宗家から狩野の名字を許され、その後江戸時代になってから、代々長府藩の御用絵師をつとめた家とされています。萩藩毛利家といえば、雪舟の流れをくむ雲谷派が著名ですが、現在残されている絵画資料を見る限りでは、むしろ狩野派、なかでも江戸で幕府の御用をつとめていた江戸狩野の絵が重視されていたようです。一般には、秀吉や家康などの天下人におもねるため、彼らの御用をつとめる狩野派の絵を、諸大名が求めたと考えられています。ただ、なぜ狩野派なのか、彼らに仕事を発注した大名たちが、城郭や御殿を飾る掛軸や障壁画を、どうあるべきと考えていたかは、実のところ、よくわかっていないのです。