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第169回

2013.11.29

nt毛利家131129連歌懐紙 これは、連歌懐紙といい、連歌を懐紙と呼ばれる紙に記したものです。連歌とは、特定の題目に沿って、連衆と呼ばれる参加者が、和歌の上の句と下の句に相当する、「五・七・五」と「七・七」の句を、相互に続けて詠むものです。

 

右端の日付から、この連歌は永禄五年(一五六二)卯月三日に行われたことがわかります。第二句に相当する「脇句」を毛利元就が、第三句を元就の長男隆元が続けています。冒頭の初句にあたる「発句」を詠じているのは、重雄という人物です。元就・隆元に先んじて発句を詠んでいるこの重雄こそが、この連歌会の主賓であったと思われます。

 

この重雄という人物、防府天満宮にかつて存在した社坊円楽坊の住持でした。円楽坊は、弘治三年(一五五七)に毛利氏が防長に進攻した際、元就が最初に防府の地で味方することを求めた社坊です。重雄が天満宮をまとめたのでしょうか、天満宮は無抵抗で毛利勢を受け入れることに決したようです。その後元就が、円楽坊とならぶ有力社坊の大専坊にとどまり、防長制圧を指揮したことはよく知られています。

 

このときのことを、元就・隆元父子は恩義に感じていたらしく、特に円楽坊を重視していたようです。この連歌会、実は大専坊の住持尊瑜も参加していました。しかし、尊瑜は第四句に過ぎず、この連歌会での尊瑜と重雄の立場の差には、円楽坊と大専坊に対する、毛利氏の尊崇の篤さの違いが如実に反映しているように思われます。

 

このときの連歌会は、石見国から凱旋した元就・隆元父子が、戦勝を祝して郡山城で催したものとされています。こうした祝いの場で、円楽坊重雄は主賓とされているのですから、毛利氏との親密ぶりは相当のものだったのでしょう。ただ、毛利氏との関係が、天満宮の社家・社坊相互の関係にどう影響したかについては、まだまだ究明の余地があるようです。