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第168回

2013.11.22

nt毛利家131122新古今集抜書 これは、鎌倉時代の伏見天皇が記したとされる、新古今集の抜書です。新古今集は、鎌倉時代初期に、後鳥羽上皇の命によって編纂された、いわゆる勅撰和歌集と呼ばれる和歌集です。選者の藤原定家は、後に貴族社会で和歌の家とされた冷泉家の祖となる人物として知られています。彼らが、衰退しつつある貴族社会の面目をかけて編纂したこの和歌集は、「新古今調」と呼ばれる歌風を作り出し、後世の和歌に大きな影響を与えたとされます。

 

これは、その新古今集の中から、いくつかの歌を選び出し、抜き出して写したものです。鎌倉時代風の優美な書体ながら、比較的大ぶりな文字を用いて、行間もたっぷりととって記されているため、全体にゆったりとした印象を与えています。また、料紙そのものも、金銀をふんだんに用いて雲や木々を描く豪華なもので、伏見天皇筆の伝承を裏付けるかのようです。

 

ただ、毛利家がなぜこの抜書を所持していたかは、全く定かではありません。毛利家は、大江広元の流れをくむ、まがう事なき鎌倉武士の家系ですが、意外なほどに、鎌倉時代の遺品は残されていません。大江広元は、京都の朝廷に見切りをつけて鎌倉に下り、源頼朝の側近として辣腕を振るいますが、貴族としては、必ずしも高い地位の人物ではありませんでした。広元の子で、毛利家の祖となる毛利季光(すえみつ)は、幕府の評定衆という、高い地位に就きましたが、その具体的な活動、とりわけ文化的なものに関しては、あまり詳らかではありません。しかも、北条時頼に敵対し、結局は一族ともども宝治合戦で自害を遂げます。安芸国に移住して後の歴代も、戦乱の中で、本拠を逐われることがよくありました。本拠地をようやく安定的に確保できるようになったのは、元就の祖父豊元の時代だったようです。

 

この抜書は、鎌倉以来の伝統にふさわしい品として、江戸時代になってから収集されたもののようです。毛利家伝来品には、大名として精力的に収集したものも多く存在していたのです。