山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第164回

2013.10.25

毛利家絶対な基本形半5_cs6 これは、元和七年(一六二一)十一月に、毛利秀就が、父の輝元から与えられた訓戒を一つ一つ了承したことを記した、請書(うけしょ)です。

 

同日付で輝元は、二十一か条にもわたる長い訓戒を秀就に与えています。それは、飲酒や夜遊びなど秀就の生活態度を改めることや、放漫財政への戒め、家臣への対応の仕方、他大名・旗本らとの付き合い方など、実に細々としたもので、二十一か条にもわたる長いものでした。

 

輝元の耳に入っていた、江戸における秀就の行動は、時代の風潮に感化されたのでしょうか、諸事派手好みの破天荒で、いずれも目を覆いたくなるほどひどいものだったようです。

 

このころ幕府は、横目(よこめ)とよばれる監察官に、諸大名の領国統治を監督させていたようですが、それに対する気遣いには、どの大名家も相当苦労していたようです。しかもそのころ、秀就の妻喜佐姫の実家越前松平家では、当主松平忠直の不行跡や、家中を統制できていない実態があらわになり、輝元を心配させていました。越前松平家の動揺は、親族でもある毛利家にとって、決して対岸の火事ではなく、毛利家にも飛び火しかねない一大事でした。そこで輝元は、将軍徳川秀忠の弟松平忠輝や、関ヶ原合戦最大の功労者福島正則でさえ改易(かいえき)、つまり取り潰されてしまった事例を持ち出しながら、今は身を慎むようにと、秀就にこんこんと注意を促すとともに、幕府への対処がまず第一と訴えたのです。

 

関ヶ原合戦ののち、輝元の最大の関心事は、嫡男秀就を一人前の大名に育てることでした。この時の訓戒は、輝元としては、最終勧告のつもりの厳しいものだったようです。紙の継ぎ目裏には、秀就が花押を据えて漏れのないことを確認し、最後に自筆の請書を貼付しています。

 

こののち毛利家は幕末まで存続し、結果として明治維新を主導します。しかしその陰に、江戸時代初期における毛利輝元の気苦労があったことは、見逃せない事実なのです。