山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第163回

2013.10.18

毛利家絶対な基本形半5_cs6 これは、関ヶ原合戦の後、徳川家康が毛利輝元・秀就親子に宛てた起請文(きしょうもん)です。起請文とは、誓いの内容を明記し、神に誓って誓いを守る文言を添えた誓約書のことです。ここで家康は、輝元親子に対し、防長二国を与えること、身命の安全を約束しています。

 

注目したいのは、宛名が「安芸中納言」輝元だけではなく、「毛利藤七郎」秀就と連名にされていることです。この起請文は、戦争状態に陥った徳川・毛利両氏和睦の証として、家康から輝元に与えられたものです。したがって、徳川・毛利両氏の交渉の結果、合意に至った事項を列記したものであり、家康が一方的に内容を決めて発行したものではありえません。

 

徳川方からしてみれば、当主である家康と輝元との間に合意が成立すれば、それでよかったはずです。したがって、ここの宛名を、連名にするよう主張したのは、毛利氏側であったと思われます。秀就は文禄四年(一五九五)生まれの、このとき六歳の幼児ですから、交渉の場で意見を述べるはずもありません。よってこの連名は、輝元の意向だったと考えられるのです。

 

輝元は、秀就三歳の袴着(はかまぎ)の儀式で、袴の紐直し役を家康に依頼しています。これには、当時最有力大名であった家康を、秀就の後ろ盾にしようとする輝元の意図が感じられます。また関ヶ原合戦の前年には、わずか五歳の秀就を豊臣秀頼に拝謁させ、元服させると同時に、秀就は従五位下侍従に任じられています。大老の嫡男とはいえ、異例の昇進でした。

 

長らく子どもに恵まれなかった輝元としては、遅く生まれた秀就に、できるだけの待遇を用意しようと考えたのでしょう。この起請文に秀就の名を明記させることも、そうした配慮からだと推測されます。こうした輝元の願いが通じたのでしょうか、輝元の死後に発生した支藩主たちの萩本藩、すなわち秀就からの独立運動は、幕府裁定により秀就が勝利します。その際、切り札とされたのは、秀就の名が記され、その防長領有を保証したこの起請文だったのです。