山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第162回

2013.10.11

毛利家絶対な基本形半5_cs6 これは、関ヶ原合戦の前日、「徳川四天王」としてその名を知られた井伊直政・本多忠勝の両名が、毛利氏の重臣吉川広家・福原広俊に差し出した起請文(きしょうもん)です。

 

起請文とは、誓いの内容を明記した上で、神に誓ってその誓約を守るという文言を添えた誓約書のことを指します。この井伊・本多両名が吉川広家らに与えた起請文は、中部地方の武将たちの信仰を集めていた白山権現の牛王宝印(ごおうほういん)と呼ばれる護符に、誠意の証としての血判も添えた、当時としては最も格式の高い誓約書でした。

 

内容は、毛利輝元がこの後も徳川家康に対して敵対しなければ、毛利氏の領国はそのまま安堵するというものです。この約束を信じた広家と広俊が、決戦の当日、毛利軍を戦闘に参加させず、結果として、徳川家康に勝利をもたらしたことは、よく知られているところです。

 

後日の弁明では、吉川広家は、当初から毛利氏が石田三成に味方することに反対だったと記しています。確かに広家は、輝元が三成の説得に応じて大坂城に向かったと聞くと、宍戸元続らとともに、それを制止するための使者を広島に派遣しています。

 

どうもこの時、輝元は、西軍盟主になることを、親族の吉川広家や宍戸元続らにも相談せずに決断したようです。従来の毛利氏であれば、こうした難題が発生した場合には、当主の独断ではなく、吉川元春・小早川隆景の「両川」や、彼らのあと毛利氏の中枢を占めた「年寄」とよばれる重臣たちと議論を尽くし、意見の相違を乗り越えた上で進路を決定していました。

 

しかし当時、「両川」はともにこの世になく、「年寄」として信頼していた叔父の毛利元清も世を去ったばかりでした。元清のあとは、その弟毛利元康が「年寄」となっていましたが、経験が浅く、輝元の判断を動かすまでには至らなかったようです。関ヶ原の戦いは、「生まれながらの戦国大名」輝元の果敢な決断が、結果として裏目に出た痛恨の出来事だったのです。