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第161回

2013.10.04

毛利家131004毛利元就座備図yo これは、座備図(ざそなえず)といい、主君を頂点に、主立った武将を序列どおりに描くものです。この絵では、毛利元就を頂点に、その左右を子の隆元と孫の輝元、その下に、吉川元春・小早川隆景のいわゆる「両川(りょうせん)」と、元就の娘婿宍戸隆家が描かれています。

 

毛利氏の場合、元就・隆元・輝元と両川は、ほぼ固定しているようですが、それ以下の武将は、絵によって描かれる人物が異なるようです。この絵の場合は、吉見正頼・天野隆重といった、本来毛利氏と同格の国衆(くにしゅう)と呼ばれる武将、桂元澄や国司元相のように、一門・吉田衆と呼ばれていた毛利氏譜代の家臣に相当する武将が描かれています。

 

こうした座備図は、江戸時代になって描かれたものですから、登場人物の選択や、序列については、当時の実情を正しく反映したものではありません。

 

毛利氏の場合、元就や隆元の代に、他の国衆に一歩先んじ、戦国大名へと転身を遂げましたから、元々同格の国衆のことを後々までも「傍輩」と呼び、対等な関係を払拭できなかったようです。また譜代家臣とはいえ、一族共々元就に誅伐された井上元兼や、案件によっては元就の要望ですら隆元に取りつがない赤川元保など、元就・隆元に心服していたわけでなく、元就・隆元といえど、彼らを意のままに働かせることは、ついにできなかったようです。

 

「生まれながらの戦国大名」である輝元は、こうした現状を苦々しく思っていたようです。譜代家臣に対しては、与えた給与分に見合う働きをすべきだと述べていますし、国衆に対しても、元就・隆元ほど懇切に頭を下げることはせず、毛利氏への奉仕を求めたようです。

 

こうした輝元の姿勢は、古い体質をもつ中国地方の国衆たちには受け入れがたいものだったようです。そのためか、直接国衆たちと折衝し、彼らの軍事的協力を得ながら、織田信長と最前線で対峙していた「両川」、特に吉川元春から再々輝元の翻意を促す書状が出されています。